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ダーウィンの日記1835年1月4日 [ダーウィンの日記]

ダーウィンの日記(チョノス群島南方)


[日記仮訳]

(1835年1月)4日(この直前の日記は1835年1月1日付けです)

北西の風が相変わらず勝(まさ)っていて、私たちはある種の大きな湾をどうにか横切っただけで、優れた停泊所に錨を下ろした。ここは、アンソン卿の船隊の一隻であるアンナ・ピンクが危難に見舞われた時に避難した所である[注]
[注] アンソン卿の航海の記録については日記の1832年3月17日付けおよび1832年5月22日付けの記事でも言及がなされています。

艦長を乗せたボートが湾の奥まで溯った。アザラシの数は全く驚くべきものであった。平らな岩や海岸の全ての部分が彼等によって覆われていた。それは可愛らしい性格を持っているように見えるが、群がり横たわりブタのように眠る。だが、ブタでさえ、彼等の周りのその汚さと不潔なにおいには恥じ入るであろう。しばしば群れのまっただ中にカモメの集団が平穏に立っていた。彼等はヒメコンドル[原文"Turkey Buzzard"]の忍耐強いが不吉な眼で見張られているのであった。この忌まわしい鳥は、腐敗の中に浸るように形づくられたその禿げた緋色の頭を持っていて、この西海岸にはごく当たり前にいる。それらがアザラシについていることはどの動物の死に彼等が依存しているかを示している。

私たちは水が(多分表面だけだろうが)ほとんど真水である事を見出した。これは山の数多くの奔流がむき出しの花崗岩を越えて滝となって海に流れ落ちることによるのである。 真水は魚を引きつけ、これが多くのアジサシやカモメ、そして2種類のウを呼び寄せる。私たちはまた美しいクロエリハクチョウのつがいと、数多くの小さなラッコを見た。その毛皮は珍重されている。帰り際、たくさんのアザラシが、老いも若きも、ボートが通り過ぎる時に水に飛び込むその勢いを見て、再び私たちは面白がった。 彼等は長くは水中にはおらず、浮かび上がり、首を長くのばして私たちについてきて大きな驚きと興味を示すのであった。

これらの島々でのインディアン[先住民]の全くの不在は完全な謎である。その人たちがここにかつて住んでいたことは確かであり、それも数百年以内のことである。彼等がどこにも移住出来たとは私は思わない。実際、彼等にはどんな動機があったというのだろうか。私たちが見るところ、ここにはインディアンにとっての最高の贅沢であるアザラシの肉があるのである。部族が死滅したのだと私は想像せざるを得ない。南米におけるインディアンの最終的な絶滅へのひとつの段階なのだろう。

[地図] 1月5日までの停泊地(緑色のマップポインターの方; "A"のマップポインターは記事とは全く無関係) ..

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地図表示におけるマップポインターについての一般的注意(2009年9月27日に付記): この一連のブログ記事において、緑色のマップポインターが筆者(ブログ作成者)の意図する地点を指しているものです。
もともとはこのブログを書いている初期の段階では"A"の印を持つマップポインターを筆者の意図する地点を表示するために使用していました。その後2009年半ば近くになりGoogle Mapsのソフトウェアの仕様が変化して、 自動的に"A"と表示されるマップポインターがその図において代表的な地点(ブログ作成者の意図とは無関係)を示すものとして付加されるものとなり、筆者が意図する地点(初期に"A"で表していたもの)は緑色のマップポインターが指し示すという形に自動的に切り変わっております。この場合"A"の地点は一般には記事とは無関係なものとなっています。(ただし、たまたま"A"の地点と筆者の意図する地点がほぼ一致しているという場合もあります。)
ブログ記事アーカイヴにおいて気の付く限りマップポインターへの言及を現在修正しつつありますが、まだ全てには手が回りかねますので、もし過去記事をお読みになる労を厭わない方がおいででしたら、その場合は各記事の地図表示のマップポインターに留意されたく思います。念のために繰り返しますと、まれに"A"のマップポインターがたまたま意図するものに一致する場合もありますが、原則としてのマップポインターが筆者の意図するものです。


[天候]1835年1月4日正午の天候:
西北西の風、風力1、全天曇り、雲、気温摂氏12.8度、水温摂氏12.2度。


[日記原文]
4th
The NW winds continued to prevail & we only managed to cross a sort of great bay & anchored in an excellent harbor. — This is the place where the Anna Pink, one of Lord Ansons squadron, found refuge during the disasters which beset him. — A boat with the Captain went up to the head of the bay. The number of the Seals was quite astonishing; every bit of flat rock or beach was covered with them. They appear to be of a loving disposition & lie huddled together fast asleep like pigs: but even pigs would be ashamed of the dirt & foul smell which surrounded them. Often times in the midst of the herd, a flock of gulls were peaceably standing: & they were watched by the patient but inauspicious eyes of the Turkey Buzzard. — This disgusting bird, with its bald scarlet head formed to wallow in putridity, is very common on this West Coast. Their attendance on the Seals shows on the mortality of what animal they depend. —

We found the water (probably only that of the surface) nearly fresh; this is caused by the number of the mountain torrents which in the form of cascades come tumbling over the bold Granite rocks into the very sea. — The fresh- water attracts the fish & this brings many terns, gulls & two kinds of cormorant. — We saw also a pair of the beautiful black- necked swans; & several small sea-otters, the fur of which is held in such high estimation. In returning we were again amused by the impetuous manner in which the heap of seals, old & young, tumbled into the water as the boat passed by. They would not remain long under, but rising, followed us with outstreched necks, expressing great wonder & curiosity. —

The entire absence of all Indians amongst these islands is a complete puzzle. That they formerly lived here is certain, & some even within a hundred years; I do not think they could migrate anywhere; & indeed, what could their temptation be? For we here see the great abundance of the Indians highest luxury, seals flesh; I should suppose the tribe has become extinct; one step to the final extermination of the Indian race in S. America. —

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["ダーウィンの日記(III)"について]
ここで扱っているのはダーウィンがビーグル号で航海に出ている時期の日記です。訳文は私的な研究目的に供するだけの仮のものです。普通は全文を訳します。また、ダーウィンが日記を書いた当時の世界観を出来るだけそのままにして読む事を念頭に置きますので、若干の用語の注釈を除いては、現代的観点からの注釈は控え気味にしてあります。
[日記原典] Charles Darwin's Beagle Diary ed. by R.D.Keynes, Cambridge U.P., 1988.
1835年1月1日より前のダーウィンの日記へはページ左のリンク集が入り口となり得ます。

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アマデウス

2種類の鵜とはカワウ(川鵜)とウミウ(海鵜)のことだと思われます。
中南米には忽然として姿を消したとしか思えないインディオ部族が多々ありますが、部族間闘争の結果或いはスペイン人による虐殺と疫病により絶滅したとも言われていますね。
インディオ文化には文字がなく歴史が残されていないのが残念です。
by アマデウス (2009-04-09 06:06) 

さとふみ

アマデウスさん..
コメント、ありがとうございます。
先住民への疫病伝播についてはオーストラリアで若干の考察がなされます。当時はまだ病気というものの原因が分かっていなかったので、博物学者ダーウィンをしてある所では"神秘的な力"とさえ言わせています。
なお、和名ウミウという鳥は日本近海に分布するもので、ここでのウは厳密には別の種だと思われます。
by さとふみ (2009-04-09 06:17) 

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